小倉に大本営設置・森鷗外は左遷では無かった 他 (歩いて分かって来た、北九州の歴史) 平成25年5月26日開設 平成30年8月16日更新 |
小倉に大本営設置予定 | 明治政府は、日清戦争開戦後、最高統帥機関である大本営を当時鉄道網の西端であった広島に設置し、同時に天皇もここに移り日清講和条約締結までの227日間、指揮を執った。この間、帝国議会も、広島で開催されるなど首都機能が東京から広島に移っていました。 この経験から明治政府は、次の「日露戦争」開戦時には、大本営を小倉に設置することを念頭に、諸準備を進めていたと、次の状況から考えられる。 1 高蔵堡塁の起工 明治32年2月 2 森鴎外が小倉に着任 明治32年6月 3 皇太子殿下が小倉を視察 明治33年10月 4 御料車をドイツに発注 明治33年 5 明治天皇が九州へ 明治35年11月 しかし、明治37年日露戦争が開戦されても大本営は二度と東京から移ることはありませんでした。幻に終わった小倉大本営の痕跡を辿ってみませんか。 |
高蔵堡塁 | 西部都督部 |
皇太子殿下の宿泊地として使用 |
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御料車 | 明治天皇の休憩所 | ||
明治天皇が九州視察の際に使用 現在、鉄道博物館に展示 |
明治天皇が、大里駅乗車の際に休憩所とし使用。 |
森鷗外は左遷ではなかった | 森鷗外は、近衛師団軍医部長兼軍医学校長から第十二師団軍医部長として小倉に着任している。その当時の小倉には、今のような水道はなく、門司ではコレラが度々発生していた。 このため、陸軍は大本営設置にあたり、まず衛生状態を改善するため、天皇と皇居警護の任にあった森鷗外を小倉に移動させたと、次の点から考えられる。 1 皇太子殿下小倉視察時に、宮内省の吏員が来て、殿下が飲用する水について福岡県の技師に尋ねたところ、小倉市の民家には飲用に堪えるものはないと答えた。 2 昭和18年発行の「軍医森鷗外」に次のように記載している。「小倉に於ける鴎外の功績は、水源地を紫川上流金辺峠の谷に探求し、ついに浄水道が設置せられるに至った。これが、小倉市現在の浄水道の基礎となったこと。」 3 小倉着任の半年後に完成した高倉堡塁には、浄化施設を伴った給水施設が初めて造られている。 ※コレラを恐れていた陸軍と宮内省 明治35年11月、九州へ訪問した天皇の4か月前の予定では門司駅(現在の門司港駅]から乗車するることとなっていましたが、その後門司にコレラが発生したため、大里の砂浜に船を並べて仮桟橋を設置し、ここから天皇は上陸し大里駅[現在の門司駅]からの乗車に変更している。 |
高蔵堡塁の給水施設 | |
浄化施設 地下貯水槽 |
皿倉山にあるケーブルカーを、何故「帆柱ケーブル」と呼んでいたのか | 宝永六年(1678年)、貝原益軒が著した「筑前国続風土記」に ○皿倉山 郡中第一の高山なり。 皿倉山より杉山はひくく、杉山より帆柱山はひくし。 皿倉山は東にあり。杉山は中にあり。帆柱山は西にあり。 と、明確に高さと位置関係が書かれており、江戸時代の各種絵図、明治時代に陸軍が作成した地図にも現在と同様に記載されている。 しかし、大正6年八幡市となった地元自治体は、皿倉山を帆柱山と取違え、各種印刷物に記載されていた。 このため、戦後八幡市議会で不思議に感じた議員からの質問に対し、執行部は「皿倉が本当だ。しかし、帆柱、権現、花尾と四山を総称して(帆柱連山)と言う。だから帆柱というのが表面に出るくる。」と、もっともらしいこじつけの答弁があった。これ以降、間違いを正すことなく、公園整備に当っても「帆柱」の名前が使われたため、ケーブルの名称も昭和32年の開設以来「帆柱ケーブルカー」となっていましたが、平成27年4月1日より「皿倉山ケーブルカー」に改称されました。間違いを正すのに、実に約60年もの歳月がかかりました。 |
江戸時代の絵地図 |
皿倉山を帆柱山と間違った結果 | 八幡市歌に皿倉山が出ていない 一 天の時を得 地の利を占めつ 人の心の 和さえ加わり たちまち開けし 文化の都 八幡 八幡 吾等の八幡市 市の発展は 吾等の任務 二 焔延々 波涛を焦がし 煙濛々 天に漲る 天下の壮観 我が製鉄所 八幡 八幡 吾等の八幡市 市の進展は 吾等の責務 三 高き理想を 帆柱山に 深き希望を 洞海湾に 愛市の真心 神こそ知るらめ 八幡 八幡 吾等の八幡市 市の隆昌は 吾等の歓喜 |
同様に、現在の八幡東区の小・中学校の校歌にも 小学校 11校中 5校 中学校 7校中 5校 に皿倉山が出ていない |