近畿地方の城
1 彦根城
2 安土城
3 二条城
4 大阪城
5 姫路城
平成16年11月21日開設
彦根城


 井伊氏が、慶長8年(1603年)から元和8年(1622年)にかけて築城したもので、佐和山城、小谷城、長浜城、大津城、安土城より建物や石垣などを移設したと云われています。 天守閣は大津城、西の丸3重櫓は小谷城の天守閣、天秤櫓は長浜城のものと伝えられています。
五十間櫓 国宝の三層天守閣
天守閣最上階 天守閣最上階
天秤櫓(旧長浜城の大手門) 内堀石垣の開口部
安土城


 織田信長が、天正4年(1576年)から天正7年(1579年)にかけて築城したのですが、天正10年(1582年)本能寺の変で明智残党を掃討するため城下に放った火により、わずか3年で焼け落ちてしまいました。 
安土城全景 天主台礎石
礎石が、中央部にはありません。
八角平方面の虎口全景 八角平方面の虎口へ
発掘された石垣 発掘された石垣
二条城


 徳川家が、慶長6年(1601年)から寛永3年(1626年)にかけて築いた城で、本丸には伏見城の五層の天守閣や建物が移築されていましたが、寛延3年(1750年)落雷のため焼失しました。 その後、幕末になって15代将軍慶喜の住居として、本丸御殿が再建されましたが、明治14年撤去されました。
 現在の本丸御殿は、旧桂宮邸を、明治26年から27年にかけて移築したものです。 
唐門(切妻造、桧皮葺の四脚門) 国宝二の丸御殿
本丸櫓門 本丸御殿
土蔵(米蔵) 南中仕切門
天守閣跡から見た内堀と東橋 東橋から見た天守閣石垣
大阪城


 天正11(1583年)、豊臣秀吉は石山本願寺の跡に築いたが、元和元年(1615年)大坂夏の陣で灰塵と化しました。その後、元和6年(1620年)から10年をかけて、大修築が行われました。
 五層五階の天守は、寛文5年に落雷のため焼失しました。 

金蔵
 徳川幕府の金貨・銀貨の保管庫で、 寛永2年(1625)に2階建てで作られ天保8年(1837)に平屋建てに改造されたと云われてます。外壁の下半部は、なまこ壁が施され、入口・窓・床・天井などに防火・防湿・盗難防止が施されています。

刻印
 石垣には、多種多様の文様や記号が刻み込まれています。 刻印には、大名の家紋、石の産地を表したものや、奉行の姓名を記したものなど、様々な刻印があります。

一番櫓
 二の丸南面の東端の隅櫓で、寛永5年(1628)に築かれています。現存する六番櫓と同じ二重櫓です。

石垣
 角の稜線を形作る角石と角脇石を井桁状に組んでいく算木積みの技術を使い、「扇の勾配」と呼ばれる独特の見事な曲線を見せている。
金蔵は「きんぞう」「かなぐら」 塀の控え石柱
 櫓の鉄砲座間? 刻印
一番櫓 算木積みの石垣
姫路城


 播磨の守護職赤松氏が、元弘元年(1331年)に砦を築いたのが始まりと云われています。その後、天正8年(1580年)羽柴秀吉が西国攻略の根拠地として3層の天守閣を完成させました。関ケ原合戦後、徳川家康は、池田輝政を城主にし、慶長6年(1601年)から8年の歳月をかけて現在の5層7階の城を築きました。
 

油壁
 秀吉時代の名残の一つで、強度はコンクリート並に頑丈だと言われています。
追手門

三の丸から見た天守群

  西小天守
長局からみた天守
菱の門
にの門 ほの門
油壁 石落とし
水五門
大天守1階から二の渡櫓への二十鉄扉
大天守千鳥破風の小屋組に刻まれた文字 大天守千鳥破風の小屋組に刻まれた文字
大天守から見た西の丸 西の丸長局渡櫓
長局渡櫓 地下出口外側 長局渡櫓 地下出口内側
長局渡櫓内の天井窓 長局渡櫓二階への梯子階段