中国地方の城
1 鳥取城
 2 津和野城 新着情報のマーク
3 福山城
4 櫛崎城
5 萩城 新着情報のマーク
平成16年11月29日開設(平成18年8月13日更新)
鳥取城


 因幡守護山名氏が、天文10年(1541年)に築いたのが始まりとされています。その後、城主は吉川氏、宮部氏と替わり、慶長5年(1600年)関ヶ原の戦功により池田氏が入城、この時二の丸、三の丸を増築する等大修築を行なわれました。そして、元和3年(1617)姫路から池田氏が入城し、城下町を完成させる、寛永9年(1632年)岡山から池田氏が入城、そのまま明治を迎えました。
二の丸御三階櫓跡 二の丸鉄御門跡
三階櫓石垣  
  二の丸鉄御門跡
二の丸冠木御門跡

天球丸への階段

二の丸西側の斜面状に積まれた石垣 二の丸仕切り門
津和野城


 吉見氏が、永仁3年(1295年)標高372mの城山に築城して以来代々居城していました。その後慶長5年(1600年)に坂崎氏が入城し、大修築を行い近世山城の体裁を整えました。そして、元和3年(1617年)亀井氏が入城し、そのまま明治を迎えました。天守は、貞享三年(1686年)の落雷により焼失、以後再建されることはありませんでした。
 津和野城は、三本松城とも呼ばれ山陰地方を代表する山城で、国の史跡に指定されています。
1986年撮影の東門
石垣の崩壊はないが石垣に沿って
大きな木が生えている。
1986年撮影の三の丸
1986年撮影の太鼓丸 1986年撮影の三十間台
まだ、転落防止柵無
中世時代の堀切 登城道から東門を望む
2006年撮影の東門
石垣が崩壊し、石垣に沿って生えていた
木は切られている。
三十間台
転落防止柵が設置されていました。
三の丸より三十間台を望む。
天守台
三十間台より低い位置にあります。
三十間台から太鼓丸を望む
出丸 出丸の門
福山城


 水野氏が、元和5年(1619年)築いた城で、その後松平氏、阿部氏と続き明治を迎えました。昭和20年(1945年)8月の空襲により、天守閣と御湯殿は焼失しましたが、昭和41年(1966年)市制50周年事業として天守閣と御湯殿、月見櫓が復原されました。

 伏見櫓は、元和8年(1622年)京都伏見城の「松の丸東櫓」を移築したものです。白壁三層の姿に桃山時代の特徴が伺えます。
伏見櫓(国重要文化財) 鐘櫓(市重要文化財)
本丸西側北向き石垣(鐘櫓下)内の排水口 排水口の内部
石垣の刻印  
 
旧内藤邸長屋門 筋鉄(すじかね)御門
萩城


 毛利氏は、関ヶ原合戦後周防、長門の2ヶ国(36万9千石)に移封されました。そのため、毛利輝元は居城候補地として、防府、山口、萩の3ヶ所を徳川幕府に願い出て、萩が決定されました。
 慶長9年(1604)に着工し、同13年に完成しました。そして、文久3年(1863)に13代藩主敬親が藩府を山口に移転するまで、260年間、毛利氏の居城として使用されました。なお、天守閣等は、明治7年(1874)に解体されました。
 萩城は、阿武川の湿地帯と指月山に築かれており、梯郭式平城と山城に形式分類されています。指月山麓に標高9mの天守台等本丸を設置し、南側に内堀を巡らしその外側に二の丸を設け、さらにその廻りに中堀を設け三の丸を設置し、廻りに外堀を配置しています。
 標高143mの指月山山頂には、詰丸を設けています。なお、戦国時代には津和野城主吉見氏が、ここに出城を構えていました。なお、指月山は、 昭和46年に国指定の天然記念物となっています。
萩港から見た指月山と萩城 菊ヶ浜から見た指月山と萩城
二の丸東門 二の丸南門
本丸 本丸内門
天守台 詰丸の要害門
詰丸の埋門 詰丸内にある矢が穿たれた大岩
櫛崎城


 稲村氏が、天慶3年(940年)に築城したとのが始まりと云われています。その後毛利氏が慶長5年(1600年)長府藩主として、以前の城を再整備しました。しかし、元和の一国一城令で廃城となりました。
天守台を望む 復元された天守台
復元された天守台 復元された天守台
復元された天守台  
石垣の上に建てられた民家 石垣